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シーア派

シーア派

 ヒジュラ暦9年は「遣使の年」。この年イスラームは史上初のアラビア半島統一を成し遂げた。翌10年(西暦631-2)は「別離の年」。ムハンマドは大巡礼(別離の巡礼)を行い、10万人の信徒の前で説教(別離の説教)を行った。

 時代は、ムハンマドの使命の終わりを告げていた。

 イスラームの創始者ムハンマドは、波瀾万丈の人生の中、最後の数年だけは静かな時間を過ごすことができたとされる。その最期は、孫ほど歳の離れた妻アーイシャの膝の上で終えたとされているが、そのときの彼の心中は、やすらかなものだったのだろうか。それとも自分の死後に訪れる、さまざまな混乱と争いの歴史を予測しながらも、アッラーに与えられた自分の使命はここまでと、自分一人の胸に納めていたのであろうか。

 いずれにせよシーア派は、生まれるべくして発生した。そしてアッラーの禁じた血統重視、部族中心のアラブ的民族主義も、その後も泰然とイスラームの中で生き続ける。

イスラームの発生については「クルアーン」の項を参照)

シーア派の起源

今日、われ(アッラー)は汝らのために汝らの教えを完成し、汝らにわが恩寵を完遂し、汝らのために教えとしてのイスラームに満足した──クルアーン「食卓章」3節(最後期の章句)

 もう、アッラーの御言葉を聞くことはできない──。

 最後の預言者といわれるムハンマドが死んだとき、信徒の胸に去来したのは、この一言に尽きたかもしれない。それまでは、争いや問題が起きるたびに対処法としての神の言葉をムハンマドの口を通して聞くことができた。それがもう金輪際、聞くことが叶わないのだ。なにもかもを神の判断に委ねていた彼らにとって、その頼りなさと空恐ろしさは、えもいわれぬものだったろう。

 それでも彼らは動き出さなくてはならなかった。アラビア半島を統一したとはいえ、生まれたてほやほやのイスラーム共同体は不安定そのもので、ムハンマドの死を嗅ぎつけた異端分子がすでにあちこちで勝手な行動を起こし始めている。ムハンマドの後継者(カリフ)として共同体の秩序を守る、新たなる指導者を早急に決めねばならない。

 そのカリフを誰にするかで、二派に分かれた。

 かたやムハンマドの盟友であり、クライシュ族にも信任の篤かったアブー・バクルを推す者たち。かたや、ムハンマドの従兄弟であり、また、ムハンマドの娘ファーティマの婿となったアリーを推す者たち。

 このとき、カリフはムハンマドの血を引き継ぐアリーでなければならないと主張したのがシーア派だった。

 しかしながら、アリーは当時32,3歳であり、実際問題として共同体の長としては経験が不足している上、決断力に欠けるところがある。少なくともその時点では、アリーに指導者の資格はないと見なされた。

●アブー・バクルとアリー
ともにムハンマドとは緊密な間柄にあった。アリーは、ムハンマドを養育してくれた伯父アブー・ターリブの子どもで、ムハンマドはアリーがまだ幼い頃に彼を引き取り、妻ハディージャとともに大切に育てた。また、アブー・バクルは、ハーシム家のムハンマドとは別の家系出身だが、ムハンマドが布教をはじめたとき、成人としてはムハンマドの妻ハディージャに続く二番目の信徒になったと見られている。アリーがのちにムハンマドの娘ファーティマと結婚したこと同様、アブー・バクルも自分の娘アーイシャをムハンマドに嫁入りさせて姻戚関係を結ぶ。ヒジュラの際には両者共に、命がけでムハンマドを守った。
●ハーシム家
ヒジュラ以前、マッカを支配していたのはクライシュ族だったが、その中でムハンマドの属するハーシム家は、時の勢いを失い、貧しく、力も弱かった。ムハンマドが従兄弟のアリーを引き取って育てたのは、6歳のときに孤児となった自分を育ててくれた伯父アブー・ターリブに対する恩返しの気持ちもあっただろうが、ハーシム家の困窮を見かねての措置でもあった。この頃ムハンマドは、資産家のハディージャに見初められて結婚しており、金銭的にも精神的にも不自由のない暮らしを送っていた。

正統カリフ時代

 アブー・バクルは、ムハンマド崩御の知らせに動揺する信者を集め、以下のように、みなを諭す。

人々よ。あなた方のうちで、ムハンマドをあがめる者にはムハンマドがすでに死んだと言おう。だが、アッラーをあがめる者にとっては、アッラーが生きておられ、決して死ぬことはない。

ムハンマドは使徒にすぎない。これまでにも多くの使徒が逝った。もし、彼が死ぬか殺されるかしたら、あなた方はくびすを返すのか。だれがくびすを返してもアッラーをいささかも害することはない。アッラーは感謝する者たちに報いたまう──クルアーン第三章「イムラーン一家」第144章

 そしてその日の夕方に、初代カリフに選出された。

 このときアブー・バクルを推した一派の流れを汲むのがスンナ派である。彼らは預言者ムハンマドの遺志に沿う形で、後継者に血統や霊的能力は必要ないとして、その後も出身を問わず歴代カリフを支持していく。対照的にシーア派は、続く第二代、三代カリフをも、ハーシム家出身でないことから拒み続け、なにがなんでも後継者はアリーでなければならないと言い続けた。彼らは「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれ、後世、シーア派という呼称が定着した。

 アブー・バクル没後、第二代ウマル、第三代ウスマーンを経て、やっとアリーにカリフの番が回ってきたときには、イスラームの版図はさらに拡大しており、さまざまな理由から統治は揺れに揺れていた。そんな中、かねてよりハーシム家と対立していたウマイア家の族長ムアーウィアが正面からアリーと敵対。内戦の末、決着がつけられなかったアリーはムアーウィアとの関係を調停に持ちこんだ。その調停を「妥協だ」として批判した者たちがアリーから「離脱する者たち」=ハワーリジュ派となってアリーを暗殺、その死をもって正統カリフ時代は終わりを告げる。

●ウマイア家
マッカのクライシュ族の中でも、預言者ムハンマドに最も激しく敵対していた家系で、元来ハーシム家とは折り合いが悪かった。第三代カリフとなったウスマーンはこのウマイア家に属し、イスラーム以前のアラブの慣習として、縁故主義を用いてウマイア家の者を枢要な地位に登用したため、アラブ、非アラブどちらのムスリムからも反感をかい、それがもとで暗殺される。

シーア派弾圧のはじまり

 アリーの死後は長男のハサンが引き継いだが、元来政治的野心を持たなかったハサンは、その後カリフ職をめぐる戦いでウマイア軍に敗退し、アリーから受け継いだカリフの権利をムアーウィアに譲渡することになる。ここに、ムアーウィアをカリフとするウマイア朝が誕生した。

 カリフの権利を手放したハサンはメディナに隠遁、このときハサンとムアーウィアの間で締結された密約では、ムアーウィアの没後、カリフの権利はハサンの弟フサインに返すという項目があったともいわれているが、そんな密約が実行されるはずもなく、ムアーウィアは息子ヤズィードにカリフ権を与える。こうして支配体制を固めたウマイア朝は、その後対立するシーア派への弾圧を開始することになる。

 その中で起こったのが、「カルバラー事件」である。この事件自体は戦史としてなんら語るところのない、たわいない出来事と言えるが、シーア派にとっては決して消し去ることのできない重大な歴史的意義を持つ事件となった。

●カルバラー事件
アリーとファーティマとの間に生まれた二人の息子、ハサンとフサイン。第三代イマームとなったフサインは、ウマイア朝からの締めつけに苦しむクーファの民から助けを求められた。クーファには、必ずしも信頼のおけない面はあったものの、決意を固めて援助に向かう。案の定、カルバラーでウマイア朝の大軍に待ち伏せされ、クーファからの援軍もこない。退路を断たれた72名のフサイン軍は、炎天下の荒野にあっけなく全滅した。このときの悲劇を追体験する行事として、今でも信徒による大がかりな追悼行進が行われ、カルバラーはシーア派の崇敬する巡礼地となっている。

 事件のあと、フサインを裏切った形となったクーファの民が改悛して起こしたタッワーブーンの蜂起、その数年後に、カイサーン派によるムスタールの反乱が起きる。ウマイア朝のアラブ至上主義政策に不満をもつ分子が結集したこれら一連の「反ウマイア家」の運動は、アッバース革命において頂点を極める。

 アッバースとは、ムハンマドの伯父アブー・ターリブの兄弟の名である。その子孫は理由があってアラビアとパレスチナの中間にあるシャラート地方に居住していたが、イラン北東部のホラーサーンで反ウマイア家運動が起きたとき、カイサーン派との連絡はできていた。西暦745年、ホラーサーン軍はウマイア軍を蹴散らしてクーファに入城、その町でアッバース家のアブー・アッバースが新カリフ宣言をする。750年、アッバース朝の成立である。

 アッバース革命の中心的イデオロギーとなったカイサーン派の過激派シーア主義は、権力を手中に収めると一転、今度はアリー派を弾圧する側に回る。そしてアッバース朝自体は、その頃徐々に形成されつつあったスンナ派の宗主として、イスラーム世界に君臨していくこととなる。

●カイサーン派
アリーがファーティマ以外の妻との間に儲けた息子、ムハンマド・ハナフィーヤ(ハナフィー族の女から生まれた息子)を擁立するカイサーン派は、ハーシム家を支持するという点においては十二イマーム派と同じだったが、アリー派とは立場を異にした。そもそもアリー派においてフサイン以降のイマームは、概して政治に無関心である。カイサーン派をはじめとする反ウマイア家運動の指導者たちは、革命への道程で、アリー一党を便宜的に利用したにすぎないという見方が妥当であろう。

 以上の経緯をもって、アリー派は、より激しい弾圧を受けるようになり、その厳しい状況が、以後の二百年で十二イマーム派の教義基盤を確立させたという、皮肉な歴史をも生んだのだった。

アリーの宗教

 シーア派を理解することはアリーを理解することであると言われる。

 前述したようにアリーは預言者ムハンマドの従兄弟にあたり、幼い頃にムハンマドに引き取られ、養育された。ムハンマドとは三十歳の年齢差があり、その信者になったときは、まだわずかに10歳であったが、のちにはムハンマドの娘婿となり、クライシュ族の迫害を逃れて移住したメディナでは数々の戦いで武名をとどろかせるなどの事柄から、信徒のあいだで次第に神話的イメージが作りあげられていった。

 さらにシーア派信者のあいだでは、生前のムハンマドがアリーを後継者として任命したという伝承も、固く信じられていた。

 それら伝説的な要素を「預言者同様の無謬性」としてイマームの絶対条件に据えたのが、シーア派の中でも多数を占める十二イマーム派の教義の特徴であり、以下がイマームの最も大事な資格とされる。

(1)イマームは、信者共同体のすべてのことについて最もよく知っている、最も学識のある者でなくてはならない (2)イマームは、預言者同様無謬性をもっていること (3)彼は、ハーシム家の者でなくてはならない

   さて、現代においてもイスラームは、ことのほか理解されにくい。日本に至っては、1970年代のオイルショックで実害を受け、その時はじめて中東に目を向けたと言われるほどに、近年まで、それは遠い世界の物語だった。なぜそれほどまでに理解がすすまないのか、その理由の一つとして、イスラームの徹底した偶像崇拝禁止があげられる。

 イスラーム発生以前のアラブ世界では、多神教による偶像崇拝が行われていたが、それらは「唯一であり全能のアッラー」の前に排他されるべきものであると、ムハンマドは説いていた。マッカを征服したムハンマドが、カアバ聖殿に祀られていた数百もの石像を一つ残らずたたき割ったというエピソードが、その信仰の強さを示している。

 そんなムハンマドだから、常日頃から「自分はただの人間であり、神的な存在として崇拝してはならない」と信徒に言い聞かせていたし、ましてや自分の肖像画を描くなどという行為は、アッラーの神性を汚すものであるとして固く禁じた。

 だからない。いっさいない。アッラーの像はおろか、預言者ムハンマドの肖像画さえ、私たちが目にする機会はないはずだ。ほんの数点、ムハンマドを描いた絵画は残されているが、その顔は白くぼかされているし、ムハンマドが主役の映画が製作されても、そこにムハンマドは出てこない。イスラームには、キリスト教におけるイエスの肖像やマリア像のような、信徒が身近に接して拝む対象とできるシンボルがない。わかりやすいシンボルがない宗教は、アピールする力に欠ける。非常にイメージがしにくいのである。

 ところがシーア派には、あきれるくらい、イマームの肖像画が残されている。

 わかりやすい宗教。十二イマーム派にとってのそれは、辻褄合わせの歴史の産物と言えるだろう。先に述べたイマームの条件には、その他にも「勇敢であること、勇気、寛容、男らしさ、慈愛を備えていること、肉体的欠陥がないこと、嫉妬や貪欲などの性格的欠陥がないこと、奇跡を行う能力があること」など、じつにたくさんの項目が列挙されている。そのすべてを満たす者として最初にイマームとなったのが、アリー、その人なのである。

 したがって、証拠がいる。アリーがまぎれもなくウンマの指導者であるということを証明する、わかりやすい伝説的事実が要る。そのうちの一つとして、アリーがカイバルの遠征に出かける際の預言者の言葉がある。

汝は余から出でて、余は汝から出でた。汝は余の後を継ぐ……汝と余の関係は、アロンとモーセの関係のごときである……汝は最後の審判に際して、余と最も近いところにおり、カウサルの泉で余の隣に侍るであろう……汝に敵する者は余に敵するであり、汝に対する戦いは、余に対する戦いである……汝は神に対して余と同じだけの信仰を持っている。汝は余にいたる扉である──シーア派イスラームp69

 そしておそらく最も大事なものが、アリーが公衆の面前で、直接ムハンマドから後継者に任命されたという「ガディーム・フンム事件」である。預言者は壇上にてアリーの腕をとり高く掲げてこう言った。

アリ−・アビー・ターレブは、私の兄弟であり、私の代理人であり、イマームである。私の後、彼は私のすべての知識を獲得した。私がその者のマウラーである者は誰でも、アリーがその者のマウラーである。神は彼を愛する者を愛され、彼を憎む者を憎まれる。彼を援助する者を援助せよ。そして彼に従う者に従え──シーア派イスラームp70

 この伝承はスンナ派、シーア派両派のハディースに記録されており、史実であろうと考えられているが、両派の間で解釈の相違があるのは言うまでもない。スンナ派は、これを後継者の認定とは認めない。

 しかしシーア派にとってはアリーこそがムハンマドの直接の後継者であり、アリー以前の三人のカリフは、アリーの権力の簒奪者であると考える。それをわかりやすく示すのに、肖像画はもってこいのツールだったのではないだろうか。「ガディーム・フンム事件」については、ムハンマドがアリーの手を取る場面が、はっきりくっきり描かれている。壇上に立つムハンマド、その全身はもちろんのこと、顔が、目鼻と髭まで描かれており、信者でない者が見ても、こんな絵を書いていいのだろうかと目をそらせたくなるほど、畏れ多い絵だと感じる。

 カルバラーの悲劇を描いたものも、下半分に、血まみれになって息絶えたフサインを抱き、悲観にくれるバズラテ・アッバーズの姿、その上半分に、額から血を流し、凛と前方を見つめるフサインの顔のアップが描かれている。イマーム・アリーの肖像などは、まさに「理想の男」を絵に描いたような、もとい実際に絵に描いて見せたものとなっていて、絵画の持つ力、訴える力の強さを示している。

 十二イマーム派はその後も激動の歴史の中で、数々の辻褄合わせの必要に迫られ、そのたびに学者たちは知恵を振り絞って伝承や教義を民衆に提示していく。その根底には常に「アリーに対する絶対帰依」の原則があった。

ムハンマド一族

 シーア派を考えるとき、一番問題となるのが「ムハンマド一族」とは誰か、ということだ。アラブの系譜は、ムハンマドの項に記した彼の本名からも明らかなように、○○の息子の△△の息子の◇◇の息子……と、父祖の名を連ねる男系つながりを示す。

ムハンマド < アブドゥッラー < アブドゥルムッタリブ < ハーシム < アブド・マナーフ(中略)< クライシュ <(以降略)

 以上からムハンマドは、クライシュ族ハーシム家のアブドゥッラーの息子であることが、はっきりわかる。女性の場合も同じく、「○○の娘」の「○○」は父の名であり、名前からはその子の母親が誰かはわからない。男親の系譜はたどれても、母親の家系は途切れてしまう。

 当然のこととして、アリーとファーティマとの間に生まれたハサンとフサインの二人の息子、彼らの系譜に「ムハンマド」の文字はない。二人の父親はアリーであり、アリーの父親はムハンマドではなく、ムハンマドの伯父、アブー・ターリブであるからだ。ハサンとフサインの母であり、ムハンマドの娘としてその血を直接引き継ぐファーティマという「女性」の存在は、なきに等しい。

 つまりハサンとフサインは、ムハンマド直系の子孫とは言えないのだ。

 その弱点を補うためにも、十二イマーム派は、伝説や逸話、「ムハンマドがいかにハサンとフサインを愛していたかを伝えるハディーズ」、「子は父の血を引き継ぐが、ファーティマの子孫だけは例外」だと述べたハディースなどを持ち出して、アリー一党の後継者としての正当性を強化する努力が必要だった。

 さらには系譜を何代も遡り、ハーシム家全体を「ムハンマド一族」と捉える解釈も生まれる。男系系譜の慣習からすれば、それが一番理にかなっており、アッバース朝などは、その解釈を主張することによって、カリフの位を手中におさめた。それゆえに、アッバース朝はアリー派を弾圧した。アリー派の主張する「アリーとファーティマの血を引く者だけがムハンマドの後継者である」という考え方が公に認められては、自分たちの立場がなくなる。

●母方の血統
ただし時代がくだるにつれ、母方でしかムハンマドと繋がらない人々が、「母方を通じたムハンマド一族」として認められる傾向が強まっていった。
●ナキーブ制度
イスラームにおいてムハンマド一族の人間は、免税、年金給付などの面で優遇され、人々から崇敬される。当然のことながら、ちまたに「我こそはムハンマド一族」と名乗る輩が湧いて出る。彼らが本当にムハンマドの血統を引き継ぐ者であるかどうかを査定する機関が必要だった。9世紀半ば頃、アッバース朝によって礎が据えられたと考えられるこのナキーブ制度は、彼らがムハンマド一族であるかどうかをはっきりさせるばかりではなく、その一族としてふさわしい行いをするように指導、監督する役割も担っており、彼らに支給する年金や給付金の管理、配分も行っていたが、近年、多くの国で(対外的には)廃止された。 

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